首都圏団地ブームとモンゴルのいま

新年明けましておめでとうございます、Manachanです。今年は粉雪の舞う元旦になりましたね。いまは柏の実家で、家族でまったりした新年を過ごしています。
 
千葉県柏市…典型的な東京の衛星都市。1954年(昭和29年)に市制施行された直後から、首都通勤圏に組み込まれて人口が急増。この街の歴史は常に、「団地」とともにありました。日本の歴史上初めて、近代的な「団地」が建設された場所の一つが、ここ柏だったのです。
かしわの記憶~第6回から引用してみます。
 
~戦後10年、敗戦から奇跡的な復興を遂げつつあった日本ですが、高度成長期を迎えると大都市に人口が集中し、深刻な住宅難に見舞われます。
 
この切り札として考えられたのが、住宅公団による集合住宅の建設だったのです。昭和31年11月入居の荒工山(あらくやま)団地は、東京近郊で最も早い賃貸の団地の一つで、ベッドタウン柏市の幕開けを告げるものでした~
荒工山団地は、私が育った家から歩いて3分、同じ「東1丁目」にあります。私の子供時代には、周辺の住宅に比べてすでに古く、くたびれていた印象があります。今ではさすがに建て替えられていますが、入居当時は、超近代的な憧れの住まいだったのでしょうね。
 
~今から50年前、2DKの公団住宅に暮らすことは、庶民の憧れでした。鉄筋コンクリートの建物にテーブルと椅子での食事、台所には流し台が備えられ、各戸に水洗トイレや内風呂の設備。こうした衛生的で安全な団地の生活は、それまでの都内アパートにくらべあらゆる面で快適だったのです。
 
当然、公団住宅の人気は高く、抽選による厳しい倍率を勝ち抜いた高給のエリートサラリーマンでなければ、入居は難しかったといわれています~昭和31年の荒工山団地に引き続き、柏市では大規模団地の建設が相次ぎます。
昭和32年(1957) 光ヶ丘団地 賃貸戸数974戸 (※マーケット・店舗・集会所・診療所・郵便局が併設)
昭和39年(1964) 豊四季台団地 賃貸戸数4,666戸 (※当時、首都圏屈指のマンモス団地)
昭和53年(1978) 大津ヶ丘団地 賃貸戸数582戸 分譲戸数1,182戸 (※都市計画と一体化した分譲中心のニュータウン)

 
【昭和39年頃の豊四季台団地】

 
【昭和43~44年頃の団地の典型的間取り】
当時、このような住まいは文化的生活のモデルとされ、皆の憧れでした。

 
いま、私は不動産投資家としてアジア各国で視察を重ねているわけですが、いろんな意味で「デジャヴ感」満載ですね。日本が40~50年前に経験したことが、いま、フィリピン、カンボジア、ラオス、モンゴルといった国々で次々に起きていますから…
 
今はさすがに21世紀なので、40~50年前の日本と比べて、建物のデザインがこじゃれてはいますけど、2015年のモンゴルで建設される団地の暮らしは、まさに地元の人にとって憧れの文化生活に他なりません。
 
【ウランバートルで建設される団地】

 
【団地の間取り】
40年前の日本で供給された間取りと、どこか似ていますね。

 
昭和40年頃、日本の団地で提唱された「テーブルと椅子での食事」という新しいライフスタイル…これと似たような風景が、もうすぐ、モンゴルの都市でも当たり前になるかもしれませんね。
というか、これモンゴル人の写真といっても違和感ないですね。彼らの顔がまるっきり日本人と同じですから…もっとも、食生活は全然違いますけど。

 
遊牧から定住へ、農村から都市へ、テントから団地へ…モンゴル人のライフスタイルは急速に変貌を遂げつつあります。同じアジアでいち早く近代化を経験した日本人として、その手助けをできれば面白いと思います。

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