【IPAチャンネル】私が職業通訳にならなかった理由(鈴木ソロ702回)

1997年の日本は三洋証券、山一証券、北海道拓殖銀行が立て続けに倒産した金融危機の年でした。まだネットが普及していなかった時代、不動産投資もまだ難しく、サラリーマンにとって副業の選択肢は乏しかった。

そんな時代、私は多言語能力を生かした副業を考え、安月給のなかから約60万円を捻出し、東京・麹町にある日本語~中国語の同時通訳を養成するマニアックな学校に通っていました。当時、10名いたクラスメートは全員女性で、男はわたし一人でした。

その中で私は、なかなか優秀な生徒でして、クラスを代表して通訳ブースに入ったこともありますし、リアルな顧客アテンド通訳のお仕事もいただいてました。ただ、本業の関係で福岡市に転勤になり、日中同時通訳の道を歩むことができなくなりました。

でも、結果的にそれでよかったと思います。当時私がやってた通訳の仕事は、自分のコンテンツではない、クライアントさんのコンテンツの言語を置き換えるだけの「言語技術者」に過ぎず、その点がいまいち面白くないと感じていたのです。

いまの私は、自分のコンテンツ(自身の投資経験や、自分が良いと思う物件の紹介等)を、日本語、中国語、英語を使ってセミナーで語る仕事をしているので、当時思い描いていた理想が手に入ったといえます。

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