1988年フィリピンのクーデターで文無しになった話

おはようございます。国際不動産エージェントManachanです。
今回のテーマは、「フィリピンでの盗難トラブル」。私の大家仲間のヒロさんが、最近フィリピンで盗難事件に遭った体験談をご自身のブログで書いておらっれるので、不動産ブロガー界では、それなりに話題になっているトピックかと思います。
 
私は、昔から海外に頻繁に出ているので、フィリピンでの盗難トラブルも経験あります。一番印象に残っているのが、大学時代、バックパッカーやっている時に、持ち金全部とられたこと。
1988年12月のことです。当時のフィリピンは今みたいに政情安定しておらず、2~3年に一度、クーデターが発生する状態。私のマニラ滞在中も、ホナサン大佐が首謀する、コラソン・アキノ政権に対するクーデターが勃発し、私は生まれてはじめて、「自分の頭上を爆撃機が通過する」、「約1㎞先で銃撃戦」という状態を体験しました(参考:同時期にクーデターを体験した方の手記)。
 
非常事態ゆえ、フィリピン人の友人とともに、いろいろと移動しました。マニラ→ロスバニオス→タガイタイ→マニラ…その移動中に、ドサクサに紛れて、手持ちの現金全部を取られました。
被害額は現金約17万円で、今から考えると大した金額ではありませんが、当時、肉体労働のアルバイトでお金を貯めて海外激安旅行していた私にとっては結構な額でした。しかも、
☆持ち金全部なくなっただけでなく、
☆パスポートも損傷して使えない。
☆そもそもクーデター最中なのでフィリピンから出国できない。

…という、なかなか素敵な事態に。
 
当然、愉快な状況ではありません。少しでも早く帰国したいのですが、クーデターの収束まで2週間弱。旅客機など飛ぶはずもなく、その間は、マニラで過ごすしかありません。
その後、クーデター首謀者のホナサン大佐が逃走し、フィリピンに平和が戻り、マニラ湾の海っぺりにある日本大使館もオープンしました。しかし、パスポートが損傷しているので、そのままでは使えない。そして、日本への飛行機チケット買う金もない。
 
当時、日本大使館の職員は、訪ねてきた私を虫けらみたいな蔑んだ目で見ていました。ま、私は駐在員やビジネスマンではなく、汚い恰好したバックパッカーなので迷惑視されたのでしょう。
「こんな時期に呑気にフィリピンほっつき歩くなんて…」
「我々は邦人ビジネスマンの救出で不眠不休なんだぞ」


…でもねえ、私だって「邦人」なのよねえ
職員の対応に、良い気持ちはしませんでしたが、ただ、一つだけ良かったことは、マニラ在住の日本人神父さんを紹介してもらったこと。
私はそこを訪ねていき、恥ずかしながら、日本への旅費6万円を貸していただきました
 
また、パスポート損傷問題ですが、フィリピン滞在中に再発行すると3週間ほどかかるらしい!そんなに待つ気にはなりません。大使館に事情を話し、今すぐ帰国したい旨を伝えたところ、パスポートに代わる「渡航文書」(Travel Document)なるものを発行してくれました
神父さんから用立てていただいた6万円で買った片道航空券と、渡航文書で、私は翌日、無事日本の地を踏むことができました。
 
ま、あまり愉快でない経験をしたわけですが、私の場合、フィリピンを嫌いになることはありませんでした。
マニラで市街戦が展開するなか、フィリピン人兵士の姿が、今でも忘れられません。彼ら、迷彩服を着たまま、呑気にトランプ遊びしてるんです!南国らしく、労働意欲の低い人たちだと思ってましたが、戦闘意欲も低いのね‥
あと、クーデターの最中でも、フィリピンの人々は限りなく陽気で、優しい。あの明るさをみていると「たぶん、何とかなるよね」と思ってしまう…
こう見えても、彼ら、やる気ゼロに近い…

 
当時のフィリピンを体験した者から見ると、いまのフィリピンの経済発展ぶりは信じがたい、まさに「シンデレラストーリー」。
1988年当時、マニラの金持ちエリア「マカティ」で一番高い建物が、確か4階か5階建てだったと思います。今は70階建てクラスがどんどん建ち、ものすごい都会になりましたね。
バスやタクシーだって、当時は日本から持ってきた20年落ちをそのまま使ってて、「上大岡駅行きの横浜市営バス」に、「Cubao」とか「Santa Cruz」みたいな地名を書いた紙を貼って、そのままマニラの街を走っていました。今のマニラは高級車、新車バリバリ走ってます。
 
フィリピンがここまで豊かになったのは、政治的安定の賜物なのでしょう。経済離陸した今のフィリピンで、当面、クーデターが起こるとは考えにくい。ま、盗難事件程度なら今後もあるんでしょうけど。
 

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