私が今の仕事にたどり着くまでの話 Vol.3

皆さんこんにちは。IPC独立系国際不動産コンサルタントの市川隆久です。
前回は、リクルートに入社を決めて、内定者時代に営業マンの仕事をしたことの話を書きましたが、今回はその続き。
さて、1984年4月1日。リクルート入社式。その日から株式会社リクルートという名前になりました。
当時のリクルートは新人配属の内示は入社前にはなく、入社式の場で1人ずつ名前と配属先が発表されることになっていました。
私は内定者時代にリクルートの最前線の採用開発部という部門の営業マンを経験して、、「スタッフ部門の希望は全くありませんでしたが、営業配属もあまり面白くないかなぁ、、という気持ちでいました。リクルートの商品と営業のパターンが単純でしたので、。
アイウエオ順に、1人ずつ名前と配属先を発表されて行きます。
当時は、リクルートの他に関連会社4社にも出向の可能性があるよ、という話は事前に聞いていました。
その4社は
1. とらばーゆの発行会社の 2. 研修ビデオなどの映像会社 3. 人材派遣?のような内容の会社 4. 不動産会社
でした。
「まさか自分がいきなり出向はないだろう。。」など、勝手に思い込む人が多いと思いますが、私もそんな1人でした。
しかし、私は「環境開発株式会社 営業部 営業開発室 出向」と呼ばれて、周りからは笑いが起きていました。
当時の大卒内定者は300名。そのうち25名が環境開発株式会社に出向になっていました。
私は、環境開発?不動産?出向?という感じでしたが、ショックではありませんでした。入社式が終わり、夜の入社パーティの場で、部門の先輩と上司に会いました。
その先輩は、後の東証一部上場会社の元社長のIさんでした。あとHさんという先輩もいました。同じ部門同期は今は行政書士のWさんがいました。
部長はHさんでリクルートの某支社長だった方が、私の同じ4月1日から出向でお見えになりました。
私の部門は、その日から新設された部門でした。
実際は何の仕事かと言うと、仲介、その他でした。
当時の環境開発株式会社は、新人含めて100人。4人に1人が新人。新人は最初は営業、拠点は東京、横浜、大阪で、マンション分譲事業を行っていました。ブランド名は「ネオコーポ」長谷工さん仕様でした。販売も主に長谷工さんが担当しており、営業マンは物件の販売責任者でした。
私は仲介、その他部門の配属でしたので、主には新築マンションの買い替えの物件査定と売却が仕事なのですが、とにかくびっくり!普通の会社と違うことばかり。
何が違うか。一言で言うと、素人集団、しかも若い。しかし元気で前向き。権限も大きい。
社内では誰も知らない業務内容も多く、誰もが忙しい。異動も3ケ月単位。ノルマは無いですが、形も無い仕事をすぐ作って試して結果を出す。入社3ケ月後に埼玉の実家を出て日本橋のワンルームに引っ越しました。
私の入社初月の仕事は、
1. 会社の保有する中古マンションをどうするか?
2. GWオープンのマンションの買い替え担当
この二つ。
1. は、いきなり当時の役員に呼ばれて中古マンションリストを渡され「このリストの物件は、我が社が過去売れ残ってそのままになっているものや、近隣対策で買い取ってそのままになっているものだ。この物件を「売る」か「貸す」かを君が考えて決めろ。という指示。しかも私1人で。物件数は15戸くらい。エリアは東京、埼玉、千葉、神奈川。
入社2週間くらいで、不動産なんて希望も想像もしていない業界で。まあ乱暴な指示ですね。
元々リクルートで何をしたい、という明確な希望も無かったので、不動産会社に出向も特にショックは無かったです。一つあるとすれば、休日は土日休みの会社に入ったつもりが、水曜日のみ休みの部門で働くことになった、ということ。
あとは、リクルートという名前もカモメのマークのロゴもない、無名な環境開発株式会社という会社で働く、ということ。
私が当時思ったことは「会社なんてそんなもの」でした。
今の私の仕事へのスタンスを決めた大きな運命であり、私はそもそも人からあれこれ言われることは嫌いで、物事を深く考えることも好きで、新しいことが大好きだったのので、不動産という仕事を与えて貰えたことには感謝しています。
「会社なんてそんなもの」と思えると、それ以上に重たいこともないので、とにかく仕事が楽しかったです。
先輩も忙しく、仕事を教えて貰える環境には全くないことも、私にとっては、とっても楽しいことでした。
1. の中古マンションをどうにかする、という仕事ですが、各物件の売れる価格、貸せる価格などは、そのエリアに詳しく不動産業者の誰かなの聞けば答えはわかるので、あとはそれを上司に提案して承認を貰って動く。やることは難しくない。
今の私が海外まで行って新しい物件を平気で入手して来れるのも、信頼出来るビジネスパートナーの存在と私の在り方と行動かな、と思っています。
その①の仕事の中で出会った日本橋の前にワンルームマンションがありまして、元々は売れ残りで、というか、総戸数7戸+店舗で、1戸も売れなかったのか1戸は売れたのかのマンション。そのうちの3戸はリクルートの社宅になっていました。残るワンルーム3戸が空室になっていました。
私は、このワンルームを私が借りたい、ということで、社内根回しをして、7月には引っ越しました。
2. のGWオープンの買い替え担当ですが、モデルルームに来たお客様で買い替え希望の方の査定を行い、専任媒介契約を結んで、売却活動をする、ことでした。
買い替えの査定の仕事ですが、当時1人の先輩だけが行っており、一度だけ査定現場に同行しました。私は査定に関してお客様とのやりとりと査定の作業を知りたかったですが、、まぁびっくり!世間話とエイやの金額決定。査定シートなど会社にありません。
私は、本屋に行って、不動産近代化流通センター?あたりが発行している査定マニュアルを買い、今後組織的な仲介を行うためにも査定シートの使い方マニュアルを作成しつつ、的確な査定をしたためには物件近くの業者に聞いて、いくらなら売れるか教えて貰っていました。
これが入社1ヶ月くらいの出来事です。
その後、この延長線上での仕事は3ヶ月で終わりを迎えます。
6月末に隣の部の部長に呼ばれて「仲介事業は今月で終わりだ。来月から新築マンションを売れ」という展開になります。
私は「何故ですか?」と質問すると「仲介は労働集約型で生産性は高まらない。それよりも新築マンションが利益が大きく生産性が高い」と、リクルート創業者で当時の社長の江副浩正さんの話だ、と言われました。
私は部長に「これから仲介はどうすれば良いですか?」と聞くと、「新築マンションのモデルルームに来たお客様の9割はその物件を買わない。そのお客様に買い替えの中古マンション買って貰え」という話。
そもそも環境開発で仲介をやっていた理由は、当時リクルートが不動産仲介会社に導入を始めた「住宅情報オンラインネットワーク(JON)」のモニターを自社子会社で試す。という目的でした。
仲介の数字が上がっても江副さんは喜ばず、JONで決まったか?ということに興味があったことを鮮明に覚えています。
リクルートのJON事業は、今でこそ当たり前に普及していますが、当時はパソコンをなく、リクルートがパソコンを不動産仲介会社に提供するフランチャイズビジネスモデルでした。
時代が追いつかず、JONはその後撤退します。
私のこの体験も、常に時代の先を行きたい、というリクルートからも身につけたことでしょうね。
さて、7月から新築マンションの販売責任者にいきなり就任しました。
その話は、次回。

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