こんばんは、Manachanです。
福岡への日帰り出張講演から帰ってきました。いつもながら、素晴らしいセミナーと、懇親会でした。また行きたいな・・・いや、来週土曜日にまた行くんだった。九州の皆さん、また会いましょう。
福岡で、投資家の皆さんと懇親会やって、はっと気がつくのは、「韓国との距離感の近さ」。福岡空港から、東南アジアやインド方面に行くのに、皆、ソウルのインチョン空港での乗り継ぎを使うんですよね。
福岡空港、地方空港としてはかなり頑張っている方ですが、それでも、成田や関空に比べると、国際線のバラエティは少ない。福岡から直行便で行ける海外の都市は限られるし、それに競争もないから運賃も総じて高い。そこで、
福岡⇒ソウル(インチョン)⇒世界各地へ
の乗継が大活躍。福岡からだと、東京行くよりソウルの方が近いんだもんね。
あと、福岡~プサン間は、JR九州の高速船が2時間55分で結んでいるから、福岡勤務のOLも、「ちょっとそこまで」感覚でプサン行って、免税品とか化粧品とか買いまくって帰る、みたいな旅行も多いですね。日本の他都市ではできないタイプの海外旅行。
東京からだと、直線距離で1000km余り、でも福岡からだとわずか220km(プサンまで・・・)。そんな「お隣の国」韓国ですが、
ソウルオリンピックの頃は、「近くて遠い外国」と呼ばれていました。
その後、時代が下り、韓流ドラマ最盛期になると、文字通り、「近くて近い外国」でした。
今では、日韓関係も冷え込み、再び、「近くて遠い外国」に逆戻りの感があります。
両国の物理的な距離が近いことは誰も否定しませんが、心理的な距離は、世の中の「空気」に思い切り左右されますよね。
しかし、世間がどう思おうと、私にとっては、韓国は永遠に、「身近でフレンドリーな外国」です。
私が19歳、大学2年の時は、ソウルオリンピックが開催されましたが、その年、初めて韓国を一人旅して、とても強烈な体験をしました。良い意味で・・・
旅行のコースは、こんな感じ・・・決して広くはない韓国の国土を、南から北へ、西から東へ、23泊24日も渡り歩くという、奇特な旅でした。
当時、日本における韓国イメージは、「近くて遠い外国」・・・当然ながら、「韓国行って、大丈夫?反日感情とかあるんじゃないの?」と心配する人もたくさんいました。私も、生まれて初めての韓国旅行、しかも一人旅。緊張が、なかったわけじゃありません。
しかし、下関からフェリーに乗って、韓国プサンの土を踏んだ瞬間、「反日感情懸念」など、たちまち、雲散霧消してしまいました。
旅先で会った、韓国の人たちは、見ず知らずの外国人である私を、快く、自分の家に泊めてくれたのです!
・最初は、プサン(釜山)。大学寮を経営する、おばちゃんと知り合い、なんとなく、意気投合して、「あんた、泊まってきなさいよ!」みたいなノリになって、結局、3泊も泊めていただきました。
・次に訪れた、韓国の古都キョンジュ(慶州)。名刹・仏国寺で、東国大学の学生と知り合って、片言の英語で話しながら、なんとなく意気投合。「俺の下宿、小さいけど泊まっていきなよ!」みたいなことになって、結局、そこで2泊しました。
・次に訪れたのが、韓国第三の大都市テグ(大邱)。バス乗り間違えて、知らない土地に来てしまった。しかも、すごい大雨。近くにあったオフィスの門を叩き、片言の韓国語で「傘貸してください」と頼んだら、親切な男性社員が、「そうか・・・俺、いま家に帰るところだから、おいでよ」ということになり、メシ食わせてもらい、結局、2泊もお邪魔してしまいました。
・その後、済州島に渡り、レンタサイクルを借りて島内一周。2日目、ソギポ(西帰浦)市郊外で、「バナナ農園」の看板を見つけ、バナナを一房買おうとしたら、家族の皆さんが、涼しそうな木陰でメシ食ってる・・・そこに入れてもらって、しばらくすると、「俺の家に泊まっていきな!」みたいな話になり、結局、そこでも2泊しました。
蓋を開けてみたら、23泊中、11泊は、韓国の皆さんの好意で、おうちに泊めてもらったのです。結局メシもおごられまくり・・・
見返りは一切、誰からも、求められませんでした。私としても、ここまで親切にしていただいた、一宿一飯の恩義は、忘れることはできません。
日本に帰った後、宿を提供していただいた皆さんに、片言のハングルでお礼状を書きました。その後、しばらくすると、文通は自然消滅しましたが、済州島バナナ農園のチョ(趙)さんとだけは、なぜか長続きして、数年ほど、年賀状みたいなかたちで文通が続きました(全部ハングルだから、読むのに一苦労)。
いつしか私も社会人になり、働いて給料をいただく身分になりました。少しお金をためて、再び、韓国旅行に行きました。
向かった先は、済州島のソギポ市。日本のお土産持って、チョさん宅を訪問。無事、社会人になった旨を伝えました。前回訪問当時、まだ2~3歳だった娘さんは、すでに小学生になり、ランドセル背負って通学。勉強机には、ハングルの文字表が貼ってありました。
私、「お礼」しに行ったはずなのに、結局、チョさん宅でまた2泊。メシおごられまくって、「ここまで親切にしていただいて、悪いなあ・・」と思いつつ、帰国の途につきました。
私、これまで訪問した国は30を下りませんけれど、ここまで、強烈に親切にされたのは、後にも先にも、韓国だけです。
なぜ、そんな体験ができたのか?私がたまたま、韓国の方々に好まれるキャラクターだったのか、あるいは、下手でも韓国語を真剣に話そう、ハングルを読もうとする態度が好感されたのか、自分でもよく分かりませんが、
少なくとも、自分のなかで、「韓国=反日国家」という固定観念が、
きれいさっぱり消えてしまうような、強烈な体験だったことは確かです。
その後、歳月は流れ、私も40歳前後の中堅社員になり、日本の職場で、韓国人の部下を持つようになりました。
2011年3月、あの東日本大震災が起こりました。新浦安にあった彼のマンションは、液状化でめちゃくちゃになり、家族4人が、避難生活を強いられました。
新浦安にいると、水にも不自由する生活。私は彼らを東陽町の我が家に、泊めてあげました。折りしも、福島の原発事故が起こり、家族を韓国に一時帰国させることになりましたが、その時も、全面的にサポートしました。彼は一人で日本に残り、働いて、私のチームを支えてくれました。
若かりし頃、親切にしていただいた韓国に恩返ししたいという気持ちが、少しは満たされて、自分でも嬉しかったです。