皆さんこんにちは。IPC独立系国際不動産コンサルタントの市川隆久です。
前回は、リクルートに入社しましたが、入社初日に不動産会社に出向した最初の3ヶ月の話でしたが、今回はその続き。
リクルート子会社の不動産会社に出向になって3ヶ月が過ぎて、私とすればせっかく不動産仲介の仕事で頑張って行こうと思っていた時に、いきなり部門がなくなって、新築マンションのプロジェクトの販売責任者になりました。
私が担当した初物件は江戸川区の西葛西の120戸のマンション。物件名は「コスモ西葛西」。その後会社名をリクルートコスモスに変更して上場して行きますが、その社名を使った第一号物件です。
西葛西駅から徒歩6分。120戸の大型プロジェクト。3LDK66㎡が2400万円台。平均坪単価は@120万円くらい。
売主は環境開発株式会社(結果コスモスイニシア)
施工は長谷川工務店(現長谷工コーポレーション)
管理は日環サービス(現大和ライフネクスト)
販売はHK販売(現長谷工アーベスト)
広告代理店は創芸(現DGコミュニケーションズ)
という顔触れ。
売主の認知度の低さに苦労しましたね。
当時のマンション市況は、在庫(売れ残り)の山のピーク。1984年当時はバブルの約5年前。1980年頃からマンション価格も上昇。金利も上昇したこともあり売れ行きが低下。金利は民間住宅ローンが8%。住宅金融公庫が5.5%という時代。
大卒初任給は大手企業でも13万円くらい。大学の学費が私立で年間40万円、国立で年間18万円。
アルバイトは日給で高くて5000円。
2400万円のマンションで年収400万円あれば6倍に収まるので何とか買えた時代です。
首都圏のマンション在庫は公表ベースで2万戸。実際は4万戸とも言われておりました。(ちなみにこの時の在庫数は史上最高でした)
それで毎年5万戸の新規供給も加わって来ますので、販売はなかなか苦労しましたね。
露骨な値引きはしにくいので、「500万円を3年間据置ローン」みたいな打出しで、何とか買いやすさを出して販売する物件が多かったです。
私が入社した当時は、「マンションは簡単には売れない」「中古になると値下がりする」という時代でしたので、営業力や創意工夫がないとダメ、ということを身をもって経験出来て良かったと思います。
その後、5年後に向けてバブルに突入して行きます。その頃は営業力も関係なく売れましたので、その頃入社していたら今の私はないかなと思っています。
私の入社3年目頃までは金利も高く、預金金利も定期なら5?6%程度はありましたので、1億円あったら金利で暮らせるな、と思っていましたね。
今の東南アジアがそんな感じだと思いますね。
コスモ西葛西の販売価格は2400万円でした。66㎡の新築マンションで、借りたら家賃が12万円程度だったと思います。当時は定期預金金利も6%程度だったので、賃貸目的で利回り6%程度のマンションを買う人はほとんどいなかったですね。
新築ワンルームマンションへの投資はあったと思います。医師をターゲットとした投資マンションの不動産会社で今の日神不動産の社名が日医神和だったと思います。マンションで赤字を出して節税するパターンだったので、今とあまり変わらないですが、値下がりリスクは今ほどではなかったと思います。
そんなこんなで、コスモ西葛西も苦労しましたが、1984年から住宅ローン金利が下がり始めたこともあり、徐々に頑張れば売れる、という頑張ることが成果に繋がるという、今から思えば若手の育成環境にはもってこいの市況になりましたね。
また当時の私は売主の販売責任者だったので、物件の販売経費を使う決裁権限や物件の収支管理も自ら手計算で毎月行っていました。当然販売の売れ行きの責任者や入居までの内覧会の実施、引渡しの取りまとめ、引渡し後のクレーム対応も自分がやっていました。
これは、今でも十分に役に立つ経験ができたと感謝しています。
不動産の契約や引渡し、その後のクレーム対応を通じて、不動産に関するリスクヘッジのポイントが身をもってわかっている。
これ本当に私の強みです。
海外不動産の工事現場を見て、むかしの日本の工事現場と照らし合わせることができる。
営業が主な仕事と言っても、現場にいることも多かったです。躯体、構造、工事のレベル、ゼネコンのレベル、など、何が大切か。がわかっている。
この経験はデベロッパーの営業だったということに尽きますね。
7月からコスモ西葛西のプロジェクト責任者になり、10月から近くの船堀の130戸のプロジェクト責任者も兼務することになり、12月にはその引渡しもあり、今だとありえないスケジュールで物件を引き渡す。検査済み証取得の翌日に引渡し開始。やりましたね、そんなことも。
担当就任時には、広告代理店からのチラシの紙面の提案に、良いも悪いもわからない状態だったのに、3ヶ月後には代理店の担当者に、あれこれと注文をつけていましたね。
それもこれも、周囲の人に助けられながら、責任者と立場を早いうちから与えてくれた会社と上司に感謝しています。
という一年目の私でしたが、年明けから新しい支社を開設する、という仕事をもらいます。
その話は、次回に。